3月11日(土)に、仕事で静岡県磐田市と、静岡市に行った。磐田市の仕事のあと、その中間点にある掛川市にある「横須賀城」に寄ってみた。
「高天神城を制する者は、遠州を制す」と言われた高天神城は、駿河と遠江の中間地点にあり、今川氏、徳川氏、武田氏(信玄、勝頼)によって奪い合ったお城であるが、徳川家康と武田氏が戦った「第二次高天神城の戦い」の際、武田氏の城であった高天神城を取り囲む付城群の中核として、家康が「大須賀康高」に命じて築城させたのが「横須賀城」です。
徳川家康によって落城した高天神城は、その後廃城となったが「横須賀城」は、その後横須賀藩として明治まで残ります。
写真で見て分かるように、横須賀城は他に類を見ない川原石の玉石を用いた石垣である。
ちなみに、この石垣は復元です。
横須賀城は明治の廃城後、昭和61年の発掘調査までは荒地になっており、発掘調査で天竜川の川原石の遺構が発掘されましたが、遺構は崩れやすく貴重なため、遺構を砂で埋め戻し、その上に復元遺構が作られています。
本物の石は砂岩質の天竜川の川原石でしたが、復元の際は木曽石である大井川の川原石を使用しているそうです。
本丸跡には三層四階の天守閣があったそうですが、明治まで残っていたのか?明治の廃城の際どうなったのか?とかの記録がまったくありません。
これは本丸の天守台の跡の礎石を模したもので、実際に発掘調査で礎石や天守閣に使われたであろう多量の瓦や、鯱瓦の頭部や尾の部分が出土したそうです。
また、下の「遠州横須賀城図」にあるように、江戸時代の中期までは、お城のすぐ前に遠州灘から深く入り込んだ入江があり、城内には船着き場もあったようですが、宝永4年(1701)の宝永地震により地盤が隆起し、干上がってしまったそうである。
なので、天守台跡からも海岸線はまったく見えませんね。
絵図には、横須賀城のもう一つの特徴である、大手門が二つ(東大手門、西大手門)描かれています。
また、お堀の遺構はまったくありませんでしたが、本丸のすぐ下にある「三日月池」は残っています。
そして、本丸の北東側は土塁になっています。
と、遺構も少ないのであっという間のお城探訪でした(笑)
このあと、静岡市の向かう途中で「高天神城」の脇を通りながらも、時間の都合で高天神城の探訪をあきらめなければならなかったのが、非常に残念でした!