ポツダムレッドけいじのポツダム日記

名古屋を中心に活動する、自称ヴィジュアルエンターテイナーハードロックバンド「ポツダム巨人軍」のヴォーカル&ギターのポツダムレッドけいじです。体力の続く限り、全身全力で叫び続けるのだ!

2017年03月

横須賀城


3月11日(土)に、仕事で静岡県磐田市と、静岡市に行った。磐田市の仕事のあと、その中間点にある掛川市にある「横須賀城」に寄ってみた。

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 「高天神城を制する者は、遠州を制す」と言われた高天神城は、駿河と遠江の中間地点にあり、今川氏、徳川氏、武田氏(信玄、勝頼)によって奪い合ったお城であるが、徳川家康と武田氏が戦った「第二次高天神城の戦い」の際、武田氏の城であった高天神城を取り囲む付城群の中核として、家康が「大須賀康高」に命じて築城させたのが「横須賀城」です。


 徳川家康によって落城した高天神城は、その後廃城となったが「横須賀城」は、その後横須賀藩として明治まで残ります。

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 写真で見て分かるように、横須賀城は他に類を見ない川原石の玉石を用いた石垣である。

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ちなみに、この石垣は復元です。
横須賀城は明治の廃城後、昭和61年の発掘調査までは荒地になっており、発掘調査で天竜川の川原石の遺構が発掘されましたが、遺構は崩れやすく貴重なため、遺構を砂で埋め戻し、その上に復元遺構が作られています。

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 本物の石は砂岩質の天竜川の川原石でしたが、復元の際は木曽石である大井川の川原石を使用しているそうです。

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 本丸跡には三層四階の天守閣があったそうですが、明治まで残っていたのか?明治の廃城の際どうなったのか?とかの記録がまったくありません。

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 これは本丸の天守台の跡の礎石を模したもので、実際に発掘調査で礎石や天守閣に使われたであろう多量の瓦や、鯱瓦の頭部や尾の部分が出土したそうです。
 
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 また、下の「遠州横須賀城図」にあるように、江戸時代の中期までは、お城のすぐ前に遠州灘から深く入り込んだ入江があり、城内には船着き場もあったようですが、宝永4年(1701)の宝永地震により地盤が隆起し、干上がってしまったそうである。

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なので、天守台跡からも海岸線はまったく見えませんね。
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 絵図には、横須賀城のもう一つの特徴である、大手門が二つ(東大手門、西大手門)描かれています。

 また、お堀の遺構はまったくありませんでしたが、本丸のすぐ下にある「三日月池」は残っています。

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そして、本丸の北東側は土塁になっています。

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 と、遺構も少ないのであっという間のお城探訪でした(笑)

このあと、静岡市の向かう途中で「高天神城」の脇を通りながらも、時間の都合で高天神城の探訪をあきらめなければならなかったのが、非常に残念でした!

膳所城&勝竜寺城

2月17日(金)に京都で仕事の前に、滋賀県大津市の「膳所城」と、京都府長岡市の「勝竜寺城」へ行ってきました。


 まずは、名神高速道路「瀬田東インターチェンジ」を降りて、膳所城へ。

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現在、膳所城は「膳所城跡公園」として整備されている。
まず駐車場に車を停めると、駐車場の向かいに、いきなり!「あやしい城」(笑)

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これは「大津市立膳所市民センター」です。立派な望楼に、屋根には鯱までのっています!残念ながら望楼部分には上がれないようです。

さて、それでは膳所城ですが、日本三大湖城(他は、島根の松江城と長野県諏訪市の高島城ですが、もちろん両城とも攻略済みです!)の一つに数えられ、大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つである。

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関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、翌、慶長6年(1601年)東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に築かせた城です。膳所城は江戸城、大阪城、名古屋城など天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第1号で、縄張りは城造りの名手と言われた藤堂高虎でした。

といっても、本当に残っている遺構は少なく、この門も復元です。


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むしろ残っているのはこれぐらい!というわずかな石垣だけ(笑)

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膳所城は琵琶湖に突き出た水城で、明治まで膳所藩として残っていましたが、例のごとく「廃城令」によって遺構は払い下げられ、市内の神社にいくつか門があるそうです。4重階の天守閣があったそうですが、廃城令が公布された翌日からすぐに解体されたそうです。

しかし、本丸跡には遺構は何もありませんが、二の丸跡にはこんな建物が!

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これは!櫓を模した建物だが、どこかで見たような気がする~(笑)デジャブだ~

近寄ってみると、これは「膳所浄水場」だそうだ。

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そう!ここでハタと閃いた!それは桑名城の「蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)」です。蟠龍櫓は揖斐川の水門統合管理所でしたが、こちらは琵琶湖の浄水場なわけです(笑)

ここで、さして見るものもない膳所城をあとにして、とある情報から茶臼山古墳へと向かいます。
茶臼山という名前の山は全国に200以上もあるそうですが、この「茶臼山古墳」という名前の古墳も全国に17ぐらいあるそうで、前方後円墳の形が茶臼に似ていることから名付けられたそうです。
ちなみに、僕の実家のある阿久比町にも、知多半島で唯一のとても小さな前方後円墳「二子塚古墳」がありますが、一部は畑になったりして、いびつな前方後円墳です(笑)

で、なぜその「茶臼山古墳」に行くのかというと、膳所城本丸二重隅櫓が移築されていて「芭蕉会館」という名で存在しているという情報を見つけたからだ。

 そこで、茶臼山古墳をカーナビにセットし、移動の最中にカーナビ画面を見ていると「杉浦町」という表記と「杉浦重剛先生旧宅」とある!

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これは何かの縁だと、とりあえず寄ってみた。


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 「杉浦重剛」先生についてはまったく存じ上げなかったが、幕末生まれで明治時代に教育家として、いくつかの現在の大学の設立に寄与された方のようだ。

 だが、縁は苗字だけではなかったのだ!杉浦先生は昭和14年に中国の上海に設立された「東亜同文書院」という日本の私立大学の院長もされていたそうなのだが、その「東亜同文書院」こそ、僕の母校である「愛知大学」の前身なのだ。
もちろん、愛知県豊橋市の愛知大学構内には「東亜同文書院大学記念センター」という資料館もある!(入ったことないけど 笑)
 と、不思議な縁を感じつつ、ようやく茶臼山古墳に到着!

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そして、これが「芭蕉会館」である。

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当初は料亭「坂本屋」移築されたそうだが、その後芭蕉会館としてに移築されたとのこと。
かなり大幅に改造されていて原形を留めていないらしい。
とういうのは、中には入れないので確認できないのだ。

確かに、どうみても元は隅櫓だと感じるのは屋根と破風ぐらいかな?その屋根にのってる金鯱も妙に金ぴかで、あとから作った感じだし、変な玄関が増築されてるしね(笑)

ただし、その屋根瓦の軒瓦の紋が「本多家」の「立ち葵」であるところが、二重櫓である遺構らしいところかな?

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この、紋をみて、またまたハタと閃いたのである!
先ほどの蟠龍櫓に似た「膳所浄水場」を見たときと同じ感覚である。

 それは蟠龍櫓のある桑名藩も本多家であり、桑名藩は徳川四天王とよばれる「本多忠勝」(いわゆる平八郎家)、で、膳所藩は「本多康俊」(彦八郎家)なのである。
この2家は、さかのぼること5代前で同じ先祖にあたります(笑)
そして桑名城は、琵琶湖を臨む膳所城と同じく、揖斐川を臨む水城なのである!

 ちなみに、本多家は他に4家あるが、有名なところは徳川家康の参謀ともいわれた「本多正信」(弥八郎家)と、日本一短い手紙「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな 馬肥やせ」を書いた福井県の丸岡藩主で、「鬼作左」こと「本多重次」(作左衛門家)がありますね。


 ところで、この軒瓦に入っている「立ち葵」については、諸説あるが、水戸黄門で有名な「この紋所が目に入らぬか~!」の徳川家の「三つ葉葵」の紋は、もともとは本多家の家紋だったが、徳川家が召し上げたとか、松平家は立ち葵を用いていたが、徳川家康が「三つ葉葵」を旗紋としたので、それをはばかって本多家は「立ち葵」に改めたとか、といろんな説があります。この「三つ葉葵」説は、実は徳川家の四天王の一つ酒井家にもほぼ同じ説があるそうです。さて、真偽はいかに?(笑)

 さあ、ここで本多家と桑名城との不思議な縁を感じた膳所城探訪は終了し、まだまだ仕事までには時間がたっぷりあるので、京都府長岡京市に移動し、「勝竜寺城」へ。

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 勝竜寺城は、築城主や成り立ちは怪しげだが、戦国末期には松永久秀、三好三人衆の属城だったものを、織田信長に攻められ降伏し、その後、細川藤孝(幽斉)が信長より与えられ勝竜寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。

 また、勝竜寺城は本能寺の変の際、明智光秀の属城となり「山崎の戦い」で敗走した光秀は勝竜寺城に帰城するも、羽柴秀吉軍の追撃を受け、勝竜寺城から脱出し、坂本城へ落ち延びる途中で落命。翌日に明智軍を破った秀吉が勝竜寺城に入城しているのである。

 そして、一番有名な逸話は、やっぱり細川ガラシャでしょう!

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細川ガラシャこと、細川玉(または珠)は明智光秀の三女で、「細川藤孝」の息子「忠興」に嫁いできて、新婚時代を過ごしたのが、この勝竜寺城です。

 しかし、勝竜寺城は江戸時代初期の慶安2年(1649年)には廃城になったようで、その後はほぼ竹藪に覆われた小高い丘のような状態だったのを、平成4年に勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造されたそうである。

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 勝竜寺城にはお堀や土塁が残っているが、発掘調査で数個の石材や大量の栗石が見つかったことから、勝竜寺城の大半が石垣によって築かれていたのではないかと言われています。

 それでは「勝竜寺城公園」に入ってみましょう!

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といっても、中は庭園として整備されちゃってます(笑)

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特に、面白いのは外から見ると多門櫓に続く「隅櫓」が、城内(あえて公園内とは言わない 笑)から見ると東屋(または四阿)になっていて、石落とし部分はガラス張りとなっているのである!(笑)

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 勝竜寺城は鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、門が枡形虎口になっています。

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その枡形虎口の北門。

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この門から山崎の合戦に敗れた明智光秀が逃げ出したと言われているそうです。

城内にある、この立派な櫓風の建物は、1階が休憩所で2階が資料館になっていましたが、来客は僕一人でした(笑)

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さて、これは発掘された墓石や石仏や五輪塔です。これらは所謂、転用石と呼ばれるものです。


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転用石は、築城の際の石垣の石不足を補うためだったり、城主の権力の誇示だったり、呪術的な意味合いがあるとも言われています。

しかし、大阪城には老婆が寄進した石臼があるということから、僕は、城主が自分の城も石垣のために領民の墓石や五輪塔や領内の石仏を取り上げたという説には首をひねるものがあります。

例えば、築城に際して人夫(にんぷ)には、きちんと工賃(米)は払っているし(実際に工賃が払えなくて工事が中断したなんて話もあるのです)、
また、豊臣秀吉で有名な、世に言う「高松城水攻め」では、人夫に過分な金子を与え突貫工事で11日後に堤防が完成させたと言われている。

そう、戦国大名とて領民から無慈悲に搾取しているばかりではない、ということだ。きちんと労働に対しての対価は支払っているということだ。
なので、これはあくまでも僕の仮説ですが、城主が築城の際に、
「石垣を作る石が足りないので石を供出してくれたら、いくらいくら払う!」
というお触れを出す。
すると、領民は我が殿様のお城のために我が家の墓石を使ってもらおう!という奉仕の精神もありつつ、しっかりとお米や金子をもらっていたんじゃないかな?
だから、だいたい転用石はよく見えるところにところに設置されていて、
お殿様からの「君たちのおかげで、立派な石垣ができたよ~」アピールなんじゃないのかな~?

な~んてことを想像しながらお城を見るのも楽しいですね!

さて、この勝竜寺城から200mぐらいのところに「神足神社(こうたりじんじゃ)」がありますが、そこには土塁と空堀、そして空堀にかかる土橋が残っています。

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これは、元亀2年(1571年)に細川藤孝が改修した「外二重堀」の遺構と言われてます。

これで、本日のお城探訪は終了し、京都市内に戻り、しっかりとお仕事をこなすのであった!(笑)
 



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