4月15日(金)に、豊川市に行ったついでに、ちょっと足を伸ばして隣町の新城市にある「長篠城」に行ってきた。
長篠城は二十歳代に、池波正太郎先生の「炎の武士」(鳥居強右」衛門)を読んで深い感銘を受け、一度は訪れたいと思っていたお城でした。
長篠城は、寒狭川(現在の豊川)と宇連川(現在の三輪川)の合流地点の断崖上にある城です。
この看板が縄張り図です。
長篠といえば、歴史でも習った「長篠・設楽原(したらがはら)の戦い」が有名ですね。
この「長篠・設楽原の戦い」とは武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が天正3年(1575)5月、15000人の軍を率いて長篠城を囲み、長篠城主「奥平貞信」が500人の城兵とともによく防いだ「長篠の戦い」と、その長篠城を救うべくやってきた「織田信長・徳川家康連合軍」38000人と、長篠城を囲んでいた武田勝頼軍が設楽原に移動して戦った「設楽原の戦い」のことです。
まずは、「長篠の戦い」で有名な話といえば、もちろん「鳥居強右衛門(とりい すねえもん)」です!
そして、「設楽原の戦い」で有名になったのが、「馬防柵」と、鉄砲3000丁による「三段撃ち」です!
「鳥居強右衛門」とは、長篠城主「奥平貞信」の家来で、武田軍15000人に囲まれた長篠城から、たった一人で城を抜け出し岡崎まで走り、織田信長・徳川家康に城の危急を訴え、休養をすすめられるも、すぐに城に引き返した。
しかし、長篠城の対岸で武田軍に捕らえられ、武田軍から「援軍は来ない」と対岸から、城に向かって叫ぶように言われたが、
「援軍は来る!この目で見てきた。あと2、3日堅固に守れ!」
と叫んだので、磔(はりつけ)にされて殺されました。鳥居強右衛門はこのとき36歳でした。
この絵は、強右衛門が磔にされるまでのわずかな間、強右衛門の監視をしているうちに親しくなったという武田家の家臣・落合佐平字次道久が、強右衛門の忠義心に感動し、磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、これを旗指物として使ったという絵です。
そんな有名な逸話もある長篠城は、日本百名城にも選ばれていますが、「長篠・設楽原の戦い」の後、廃城になっているので築城から廃城までは70年ほどしかありません。
なので実際、長篠城を訪れてみると「これで百名城?」と思うぐらいの規模であり、遺構であった(笑)
やっぱり、歴史上に名が残るほどの戦いに関連した城ということで選ばれてるんでしょうね(笑)
まずは、二の丸と本丸の間の堀です。典型的な戦国末期の城郭の姿をよく残していますね。
本丸側には土塁が築かれています。
本丸内部からの土塁です。
なにも説明がないので、現存なのかどうかもわかりませんが、土塁の内側には野面積みの腰巻石垣が見えますね。
これが本丸。ご覧のように何もありません」(笑)
本丸と弾正廓の間の堀跡のようですが、これは絶対現存ではないでしょう?
右側の石垣は丸石が使われてますからね~(笑)
本丸のすぐ横には「不忍(しのばず)の滝」があります!
これは、豊川(寒狭川)に落ち込む滝が少しづつ後退してできた滝で、侵食された深い谷が長篠城の西側の天然の堀の役目をしています。
そして、この長篠城には本丸と野牛廓の間をJR飯田線が走っています。
土塁をぶった切ってます!(笑)
二の丸側からみた堀と土塁。
野牛廓には「殿井」(井戸)が残ってます。籠城戦には不可欠な水ですが、こんこんと湧き水が溢れてます。
その野牛廓の先が川の合流点です。
最近開通したばかりの新東名高速道路が見えますね!
断崖の先端からの豊川です。JR飯田線も見えます。
遺構としてこれだけ?(笑)ってことで、二の丸帯廓に建っている「長篠城址史跡保存館」に入ってみましたが、入館料210円分の価値ってとこです(笑)
それより気になったのはネーミング。名前の中に「址」と「跡」という「あと」という字が二つも入ってる!(笑)
まるで、「損害保険ジャパン日本興亜株式会社」みたいだ!(笑)
ここで、長篠城を出たのだが、すぐ近くにあやしい城を発見!(笑)
立派な金鯱がのってますよ!
以前は五平餅屋さんみたいだけど、現在は廃業されているようですね。
そして、新城市内にあるもう一つのお城「野田城」へ。
野田城は、永正5年(1508)に築城され、今川、武田、徳川などによって何度も争奪戦が繰り返されたお城で、天正18年(1590)に廃城になっているので、長篠城と同様に約80年ほどしか在城してませんでした。
なので、野田城も長篠城と同じように戦国末期のお城の遺構が残っています。
ちなみに、野田城には、武田信玄がこの城を攻めた時、城から聞こえる笛の名手「芳休」の笛の音に聴き惚れていたら鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡したとの伝説があるそうですが、この伝説をもとに黒澤明監督の「影武者」が制作されたそうです。
遺構は三の丸、二の丸、本丸とあり、こちらは二の丸と本丸の間の堀です。
これは、本丸と二の丸を繋ぐ土橋です。
そして本丸ですが、写真では陽が射しているように見えますが、実際は昼なお薄暗き杉林で、たった一人で佇むにはちょっと怖かった(笑)
特にこの井戸の写真を撮ったときは、霊感のまったく無い僕でも井戸の中を覗き込む勇気はありませんでした(笑)
しかし、この野田城全体に生えてる杉!
スギ花粉症の僕にとって、2月に来てたら死んでたな(笑)
長篠城は二十歳代に、池波正太郎先生の「炎の武士」(鳥居強右」衛門)を読んで深い感銘を受け、一度は訪れたいと思っていたお城でした。
長篠城は、寒狭川(現在の豊川)と宇連川(現在の三輪川)の合流地点の断崖上にある城です。
この看板が縄張り図です。
長篠といえば、歴史でも習った「長篠・設楽原(したらがはら)の戦い」が有名ですね。
この「長篠・設楽原の戦い」とは武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が天正3年(1575)5月、15000人の軍を率いて長篠城を囲み、長篠城主「奥平貞信」が500人の城兵とともによく防いだ「長篠の戦い」と、その長篠城を救うべくやってきた「織田信長・徳川家康連合軍」38000人と、長篠城を囲んでいた武田勝頼軍が設楽原に移動して戦った「設楽原の戦い」のことです。
まずは、「長篠の戦い」で有名な話といえば、もちろん「鳥居強右衛門(とりい すねえもん)」です!
そして、「設楽原の戦い」で有名になったのが、「馬防柵」と、鉄砲3000丁による「三段撃ち」です!
「鳥居強右衛門」とは、長篠城主「奥平貞信」の家来で、武田軍15000人に囲まれた長篠城から、たった一人で城を抜け出し岡崎まで走り、織田信長・徳川家康に城の危急を訴え、休養をすすめられるも、すぐに城に引き返した。
しかし、長篠城の対岸で武田軍に捕らえられ、武田軍から「援軍は来ない」と対岸から、城に向かって叫ぶように言われたが、
「援軍は来る!この目で見てきた。あと2、3日堅固に守れ!」
と叫んだので、磔(はりつけ)にされて殺されました。鳥居強右衛門はこのとき36歳でした。
この絵は、強右衛門が磔にされるまでのわずかな間、強右衛門の監視をしているうちに親しくなったという武田家の家臣・落合佐平字次道久が、強右衛門の忠義心に感動し、磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、これを旗指物として使ったという絵です。
そんな有名な逸話もある長篠城は、日本百名城にも選ばれていますが、「長篠・設楽原の戦い」の後、廃城になっているので築城から廃城までは70年ほどしかありません。
なので実際、長篠城を訪れてみると「これで百名城?」と思うぐらいの規模であり、遺構であった(笑)
やっぱり、歴史上に名が残るほどの戦いに関連した城ということで選ばれてるんでしょうね(笑)
まずは、二の丸と本丸の間の堀です。典型的な戦国末期の城郭の姿をよく残していますね。
本丸側には土塁が築かれています。
本丸内部からの土塁です。
なにも説明がないので、現存なのかどうかもわかりませんが、土塁の内側には野面積みの腰巻石垣が見えますね。
これが本丸。ご覧のように何もありません」(笑)
本丸と弾正廓の間の堀跡のようですが、これは絶対現存ではないでしょう?
右側の石垣は丸石が使われてますからね~(笑)
本丸のすぐ横には「不忍(しのばず)の滝」があります!
これは、豊川(寒狭川)に落ち込む滝が少しづつ後退してできた滝で、侵食された深い谷が長篠城の西側の天然の堀の役目をしています。
そして、この長篠城には本丸と野牛廓の間をJR飯田線が走っています。
土塁をぶった切ってます!(笑)
二の丸側からみた堀と土塁。
野牛廓には「殿井」(井戸)が残ってます。籠城戦には不可欠な水ですが、こんこんと湧き水が溢れてます。
その野牛廓の先が川の合流点です。
最近開通したばかりの新東名高速道路が見えますね!
断崖の先端からの豊川です。JR飯田線も見えます。
遺構としてこれだけ?(笑)ってことで、二の丸帯廓に建っている「長篠城址史跡保存館」に入ってみましたが、入館料210円分の価値ってとこです(笑)
それより気になったのはネーミング。名前の中に「址」と「跡」という「あと」という字が二つも入ってる!(笑)
まるで、「損害保険ジャパン日本興亜株式会社」みたいだ!(笑)
ここで、長篠城を出たのだが、すぐ近くにあやしい城を発見!(笑)
立派な金鯱がのってますよ!
以前は五平餅屋さんみたいだけど、現在は廃業されているようですね。
そして、新城市内にあるもう一つのお城「野田城」へ。
野田城は、永正5年(1508)に築城され、今川、武田、徳川などによって何度も争奪戦が繰り返されたお城で、天正18年(1590)に廃城になっているので、長篠城と同様に約80年ほどしか在城してませんでした。
なので、野田城も長篠城と同じように戦国末期のお城の遺構が残っています。
ちなみに、野田城には、武田信玄がこの城を攻めた時、城から聞こえる笛の名手「芳休」の笛の音に聴き惚れていたら鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡したとの伝説があるそうですが、この伝説をもとに黒澤明監督の「影武者」が制作されたそうです。
遺構は三の丸、二の丸、本丸とあり、こちらは二の丸と本丸の間の堀です。
これは、本丸と二の丸を繋ぐ土橋です。
そして本丸ですが、写真では陽が射しているように見えますが、実際は昼なお薄暗き杉林で、たった一人で佇むにはちょっと怖かった(笑)
特にこの井戸の写真を撮ったときは、霊感のまったく無い僕でも井戸の中を覗き込む勇気はありませんでした(笑)
しかし、この野田城全体に生えてる杉!
スギ花粉症の僕にとって、2月に来てたら死んでたな(笑)